作品に求められるものとは?
ちょっと読んだ感想をぐだぐだっと、メモ書きとして残しておきます。
この本『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)』のタイトルにある「動物」と「ポストモダン」は、それぞれ次のような意味を示しているようです。
動物 | 欲求に任せて、つぎつぎと消費する人間 |
|---|---|
ポストモダン | オタク系文化 |
どうやら、昨今の「オタク系と呼ばれている文化圏での商品(作品)」は、徹底してユーザの消費のためだけに作られているのだそうです。
私なんかの感覚でいうと、「作品というのは作者のメッセージとか、伝えたいことがあって成り立つもの」という認識なのだけれど、オタク系の商品においては、それはもうあまり意味をなさないようです。
作者のメッセージなどと言うのは、どうにも古すぎる考え方なのかもしれません。ちょっとびっくり、びっくりドンキー。
東浩紀さんは、次のように書いていらっしゃいます。(P78)
日本のオタクたちは、70年代に大きな物語を失い、80年代にその失われた大きな物語を捏造する段階(物語消費)を迎え、続く90年代、その捏造の必要性すら放棄し、単純にデータベースを欲望する段階(データベース消費)を迎えた
何とか、80年代までの二次創作などでユーザが戯れる感覚は、ちょっと分かるような気がするのです。もし私も絵がうまかったならば、同人などに積極的に参加していたかもしれません。
80年代の二次創作の作品というと、『キャプテン翼』とか、『聖闘士星矢』あたりかしら?
こんなん書いていると、読みたくなるわぁ~。「行くよ!岬くん!」
80年代あたりは、まだオリジナルに比重があったように思います。ユーザは作品が好きで、キャラクターが好きすぎて、いてもたってもいられず描いてしまうという感じだったのではないかしら。
しかし、90年代以降になると状況がまた違ってきたのだそうです。例えば、『NARUTO』や、『BLEACH』などは、二次創作しやすいような仕掛けを作品の中に散りばめている感じがするし、『エヴァンゲリオン』においては、制作側が二次創作の作品も提供しているとか。
作品のオリジナルとコピーの境界が、少しずつ曖昧になってきたんですかね。
あるいは、そのメッセージとか、テーマすらも消費の道具のひとつということなのかもしれません。
そして、『デ・ジ・キャラット(通称でじこ)』や、最近でいうと『初音ミク(HATSUNE MIKU)』などもそうなのかしら?
物語なんて必要なくて、「萌える」パーツが集約されたキャラクターであれば、良いのだそうです。
ある種、お題をもらって、ユーザが好きなように作ることができるような・・・作家とユーザの境界も曖昧になってきているということでしょうか。
いまの読み手(ユーザ)は、私の子供の頃とは違って、一歩引いた見方をしているみたいです。作品にのめりこむスタンスが違っているのではないかしら。
ユーザとして楽しんでいるというよりも、批評家的な楽しみ方とか、プロデューサ的、編集者的なおもしろみも加わっている感じがします。そういう人が増えたのかな。
そうなると、作り手としては、やはり、ややこしいんですかね。
こういった流れの中で、しっかり呼応したのが、『コードギアス』ではないかしら。物語としてもおもしろく、キャラクターや設定、世界観とどれをとっても、どのようなユーザにも対応しているすごい作品です。
疎(うと)い私でも分かるのだから、若い人たちなどは、熱狂せずにはおれないでしょうよ、きっと。
『動物化するポストモダン』は2001年出版なので、もう少し最近の話も含めた本を読んでみた方が良かったですね。
後半では、ノベルゲームなども紹介されていますが、よく分からないので、また追々お勉強していくことにしましょう。
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